2008年02月26日
永楽帝の即位以前
凄い記録が残っている人物なんですね。
もっとこのお人について知りたくなりました。
即位以前
1360年、洪武帝の第4子として生まれ、21歳で燕王に封ぜられる。元を北方に駆逐したが、北元としてモンゴル高原に割拠していた時代、北方の要衝である燕は極めて重要な防衛拠点であり、ここに配置された朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。明史によれば洪武帝は1392年に朱標が死去すると、朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだと記録にある。これは建文帝簒奪を隠蔽するための脚色とも考えられ、盲信することはできないが、朱棣が有能な人物であったことを示唆する記録である。
1398年、洪武帝の崩御にともない朱棣の兄・朱標の子にあたる建文帝が即位すると、建文帝とその側近達は皇帝権力を確立するため、各地に封じられた皇族である諸王の取りつぶしを画策する。これに反発した朱棣は10万の兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は自らの軍を靖難軍(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と称される。
1402年、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位した。1421年、首都を北平に遷し、これを改名して北京順天府とするとともに、1406年から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。
皇帝に即位した時、建文帝の側近で儒学者であった方孝孺に「燕賊簒位(燕賊、位を奪う)」と自らの簒奪を非難され、激怒し方孝孺の一族を皆殺しにした。処刑は方孝孺の使用人、門人にまで及び、「滅十族」と称された。これより永楽帝は建文帝の存在を歴史から抹殺しようと試みる。まず建文の元号を廃止、この年を洪武35年とした。そして皇帝直属の錦衣衛に建文帝に関する言動を監視させた。また東廠と呼ばれる宦官の組織を作り諜報活動を実施させている。洪武帝が行った恐怖政治を永楽帝は自らの簒奪を隠蔽するために実施している。これにより永楽帝の時代に明の皇帝独裁体制が固まり、以後政治を壟断する寵臣は出現するが、新皇帝が即位すると没落し処断されるのが常になった。
文化的には永楽大典・四書大全・五経大全・性理大全・歴代名臣奏議などを編纂させた。これには儒学者が建文帝について議論するのを事前に封じる意図があったと言われる。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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